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2014年03月31日
小路紫峡
手を振るは聞こえぬ返事耕せる
に籠もっていた農家の人たちも辛夷が山に咲き始めるとあちこちで春耕がはじまる。道ゆく作者は誰の畑かがわかっているので大声で存問の声を掛けるが、遠く耕せるひとは手を横に振るばかり。逆風が吹いていて声が届かないのか、あるいはかろうじて聞こえてはいるが遠すぎて内容が判別できないのだ。少し耳が遠くなっている老農夫であることも考えられる。のどかな点景である。『風の翼』(1977)所収。
2014年03月30日
阿波野青畝
尖る靴丸い靴など踏青す
畝師晩年の作品なので句碑開きで集まった賑やかな女流達を写生されたのでしょう。靴先を写生してその雰囲気を連想させているところが非凡である。お元気な頃は大勢の弟子と一緒に吟行されても迷惑そうな顔もされず飄々と作句されたそうです。野遊びであれば、わざわざ先の尖る靴は履かない。『踏青』という季語の働きが不自然さを感じさせないのである。『宇宙』(1992)所収。
2014年03月29日
南上加代子
短日の切り上げ話嘘がでる
辺即時を詠むことを得意としている加代子さんは、とても家庭的で優しい性格の人。揚句は、電話での会話ではないかと思う。なぜなら電話は顔が見えないので嘘がつきやすいからである。用件はとっくに終わっているのにきりのない世間話がつづく。短日の気ぜわしい時間帯、思わず嘘をついて切り上げた。日常の何でもない情景だが『短日』という季語の斡旋によって命ある一句となった。『南上加代子句集』(1986)所収。
2014年03月28日
波出石品女
花衣脱げば掃除が待つて居る
性ならではの感覚の作品でとてもユニークである。華やいだ時間を楽しんだあとの余韻に浸るまもなく主婦としての現実がまっている。ため息がでるという気分ではなく、両方とも大事だと考えていて上手に気持ちを切り替えているのである。品女さんの句集の序文に青畝先生はこう書いておられる。『品女さんは自由に自分の見聞を句に仕上げる才能がある。型にとらわれることなく感動が型を創めて作る。だから新しくなる』と、全く同感である。『ナナカマド』(1982)所収。
2014年03月27日
阿波野青畝
いそがしや木の芽草の芽天が下
っていた大地や雑木も春の兆しと共に競って芽吹きはじめる。やがて温かい雨が降りだすと日ごとに加速し、うっかりしていると蕾がほぐれ初めている。『いそがしや』の措辞はいかにも青畝師らしいと思うが簡単にでてくることばではない。芽吹きとともに人間の生活もまた忙しくなってくるので、そうした意味あいも含めた『いそがしや』である。『天が下』という感慨もまた敬虔なクリスチャンである師の信仰からでている。生きとし生けるものの全ては神の摂理によって育まれている。青畝師晩年の作品である。『宇宙』(1933)所収。
2014年03月26日
小路紫峡
永き日や画布をへだてて裸婦と画家
およそ句材にはならないと思われるような対象物なのに、『永き日』という季語のはたらきによって何とも不思議な空気を醸し出している。ふつうの感覚であればモデルの裸婦を長時間凝視できないと思うが画家は純粋に美を追求して微塵のためらいもない。モデルもまた目線を意識して衒(てら)う様子もなく、ただ沈黙の刻が過ぎていくのである。画布を挟んだ両者の対比に興を得て一句となった。『風の翼』(1977)所収。
2014年03月25日
小路紫峡
ひしめける顔に吾子あり卒業す
現は客観写生でありながら、吾が子に対する愛おしい親心がひしと伝わってくる。群衆状態の卒業生の中から吾子の顔とその一挙手一投足にだけ注目しているほのぼのとした親ばかぶりも垣間見えるのである。客観写生でありながら作者の主観が感じとれる。これが写生の力なのである。紫峡先生の作品には、徹底した写生が貫かれている。対象物を凝視して30分、1時間と身じろがない先生の後ろ姿には何度も敬服させられた。全く無垢の新人時代から先生に鍛えられたぼくにも似た趣向があるかもしれない。『風の翼』(1977)所収。
2014年03月25日
阿波野青畝
谷戸迷ひ落椿又落椿
意は実に明晰で説明の必要はない。ことばの魔術師といわれた青畝師らしい実に省略の効いたみごとな作品である。「谷戸」という措辞でおおよその風景が見える。次に「落椿又落椿」とあるので恐らく山懐の空谷の小径であることが連想できる。吟行の場合、つい具体的な場所名をいいたくなるが、俳句ではよほどのことがなければ省略して、鑑賞する人の連想に委ねた方がよい。ぼくはこの作品から能勢の里山吟行でみた迷路のような山路を思い出す。『旅塵を払ふ』(1972)所収。
2014年03月24日
阿波野青畝
磔像の全身春の光あり
光が季語なので屋外にあるキリストの磔像(たくぞう)である。 わたしたちの罪の身代わりとなって十字架で死なれたイエスは、三日目に甦られていまも生きておられる。 イースターという季語もあるが、春日を反射して輝くキリストの姿はまさしく復活の春を連想するのに相応しい。 「春の光」がこの句の生命であり、夏の光や冬の光では全く意味をなさないことに注目して欲しい。 季語が動かないことが秀句の絶対条件である。 『紅葉の賀』(1953)所収。
2014年03月24日
小路紫峡
秋灯下聖書に心戻りけり
事にプライベートにと日々忙しく生活している人の姿が浮かぶ。あるいはご主人や子供達のお世話にと忙しい主婦であるかもしれない。 多事多端な毎日が続き、世俗な雑事に追われだすと祈ることすら怠りがちになり秋思がつのる。 ふとそんな自分に気が付いて聖書を取りだしてみた。 読みかえしつつ平安を取り戻すのである。『風の翼』(1977)所収。
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