子供と一緒に読んでいて、思わず「あははははっ」と大笑いしてしまった楽しい絵本に、「おつかい」というのがありました。ある雨の日、女の子がお母さんから、「お使いに行って来て」と頼まれる話です。
初め、女の子は「でも雨が降っているよ」と言って心配しますが、母親は「傘をさして行けばいいで しょ」と言います。けれどもこの女の子、次から次へと心配の種が出て来るのです。「でも、足が濡れちゃう」→「じゃあ長靴をはいて」。「でも、服が濡れちゃう」→「じゃあレイン コートを着て」。「でも、風で髪の毛がクシャクシャになっちゃう」→「じゃあ帽子をかぶっ て」。
・・・「でも、でも…」と女の子の心配はエスカレートしていきます。
こんなふうにして、山のような用意をして、ついに、「じゃ、行こうか」と言って外に出ると、・・・外はもうすっかり雨があがって、太陽が輝いていた・・・。
沢山の荷物を抱えた女の子の、言葉を失った表情が何ともユーモラスで、傑作です。子供と笑いながら、でも、私達が抱える「心配」にも、これと似たところがあるのではないかなあ、と思ったのです。
これは、「衣食住」の心配についての教えに見えますが、この「心配するな」という原則は、今の私達の抱えるあらゆる種類の心配にも当てはめることができます。けれども、いくら「心配するな」と言われても、やはり心配し、クヨクヨし、思い煩うのが私達で しょう。
イエス・キリストは、そのような私達の「心配症」をよくご存じでした。ですから、「心配するな」と教えるだけではなく、何故、心配する必要がないのか、その理由をていねいに教えてくださいました。
・・・聖書のこの辺の教えは、神様が、何とかして私達に無用な心配をやめさせ、生き生きした喜びにあふれた人生をおくって欲しいと、説得しておられるような所です。
ということです。「いのち」や「からだ」は、皆さんはどこから手に入れましたか? 神様がただで下さったのです。自分で作り出して、この世に来た人はいません。では、その大切な尊い「いのち」や「からだ」を無償で下さったすばらしい神様は、その「いのち」や「からだ」を生き生きと生かすための必要も全てご存じで、用意して下さっているのが当然ではない か、と言うのです。
つまり、より大切ですばらしいものをすでに下さっている神様は、より小さな日常の必要も満たして下さるのは当然だというわけです。(再度、これは衣食住のことばかりでなく、私達の生活に必要な全 てのことに当てはまることにご注意下さい。)
というのです。もちろん、何も働かなくてもいいというのではありません。鳥だって一生懸命働いています。しかし、鳥はその結果を心配しません。「明日はミミズがどれだけ取れるかしら…」と心配して、夜も眠れ ない、などという鳥は(絶対とは申しませんが、多分)いないでしょう。
神様は私達を、鳥などよりもはるかに愛し大切にして下さっているというのです。私達は、なすべき努力をすると同時に、その結果は、私達を愛して最善を与えて下さる神様に、安心して委ねればよいの だというわけです。
この質問に対する答は、「できません」です。心配しても、どうにもならないのです。私達の力は有限で、小さなものです。どうにもできないことを心配するのはやめなさい、とイエス・キリストは言うのです。あなたにはどうにもならないことも、神様の方ではちゃんとご存じで、一番良いことをして下さるのだから、というわけです。
もう一つ、有名な聖書の箇所を引用します。
あなたの今のご心配は何でしょうか。それを「心配」しているのは、あなたお一人ではなくて、神様ご自身も「心配」して下さっていることがわかるでしょうか。あなたを愛して、全てを最善に配慮して下さっている神様を知って、今のあなたを縛る「心配」から の解放を味わわれてはいかがでしょうか。
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