『苦難は神の業が現れる舞台』 (ヨハネの福音書9章)

 多磨教会牧師 広瀬 薫

人生にはなぜ、苦しみがあるのか?

今から数千年前、聖書の中で最も古い部分が書かれた時、そのテーマは、「人生にはなぜ、苦しみがあるのか?」ということでした。まさにこの問題は、人類の歴史と同じくらい古いのです。まったく、人生にはなぜ、求めもしないのに、様々な苦しみがあるのでしょうか。

「苦難の意味」は?

と問われたら、あなたなら何とお答えになるでしょうか。

ある時、イエス・キリストの一行が、生まれつき目の見えない男の人に出会いました。その時、弟子達はこんなふうにイエス・キリストに聞くのです。

「先生。彼の目が見えないのは、誰のせいですか? 本人が悪いことをしたからでしょうか。それとも、両親の罪のせいでしょうか?」

部外者が無神経に投げつける残酷な問いかけですが、今でも日本の多くの宗教がこれと同じように考えています。いわゆる因果応報・自業自得・前世の報い・先祖のたたり…ということをイエス様の弟子達も考えたのです。

しかし、こういう考え方からは真理は発見できません。こんなふうに何かのせいにするところには本当の救いは無いのです。もし、本人のせいだと言えば、この人は生涯自分を責め、劣等感にとらわれ、回りからは差別されて生きなければならないでしょう。また、親のせいだと言えばこの人は生涯自分の親を恨むことになるでしょう。

ところが、この時、イエス・キリストはこう答えられたのです。

この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざがこの人に現れるためです。

つまり、この苦しみは誰のせいでもなく、これから神様がなさる素晴らしいみわざをこの人が経験するための機会となるのだ、と言われたのです。これが「苦難の意味」という、人類永遠の問いに対して、イエス・キリストが真正面から差し出した答でした。見事な解答でした。まさに「目からウロコ」が落ちるような気が致します。

それまで、どんな哲学でも、宗教でも見出すことができなかった、実に衝撃的・革命的・起死回生の解答でした。そして、この盲目の人はイエス・キリストによって目を開かれ、更にイエス様を信じる信仰を持つようにと、「心の目」も開かれて(体の目よりもこちらの方が大切なことです)、新しい喜びの人生に進んで行くのです。

イエス・キリストによる平安

苦しみを誰かのせいにしても救われません。自分を責めても、親や回りを責めても、何の解決もありません。そもそも、「不幸」というのは、「苦しみがあるから不幸」なのではありません。

苦しみをきっかけとして、どのように生きて行くかを選ぶ時に、人は不幸にもなり得、また新しい喜びを知ることにもなり得るのです。・・・苦難をきっかけとして、そのただ中でイエス・キリストに出会うならば、そこには神の国が開けているのであり、思いもよらぬ幸福への入り口となるのだと、この盲目の男性のできごとは教えてくれています。

このことを、日本の救世軍の創始者である山室軍平という人は、イエス・キリストが十字架につけられた丘の三本の十字架に見ました。あの時、イエス・キリストと二人の強盗が並べて十字架につけられました。同じ苦難を受けたのです。ところが、その強盗の一人は、十字架の苦しみの中で横のイエス・キリストを信じて喜びの内に天国に入って行きました。けれども、もう一人の強盗は、イエス・キリストをののしりながら、絶望の内に死んだのです。つまり、同じ苦しみでも、人の側の姿勢によって、その「意味」は天と地ほど違ってしまうのです。

全ての人に、人それぞれの苦しみがあり、いわば「十字架」があります。けれども、その中でイエス・キリスト(今も生きておられる神)に出会う時に、その意味はそれまでの否定的・後ろ向き・恨みの考えから、肯定的・前向き・感謝の考えへと、百八十度変わりうるのです。これは人生の「神秘」です。

私が初めて教会へ行った頃、不思議に思ったことの一つは、人生のハンディを負った方々が、とても明るく生き生きとしておられることでした。「あんなに大変そうな人生なのに、どうして明るく喜んでいるのだろう?」と思いました。後にわかったことは、このイエス・キリストの教えが、彼らの持つハンディを前向き・肯定的に受けとめさせ、彼らは苦難や障害にこそ現れる「神のわざ」を経験して喜んでいたのです。 例えば、

  • テレビ番組「ニュース・ステーション」でたびたび紹介された歌手の レーナ・マリヤさん。
  • 口で描く絵と詩が有名で、美術館も建てられている 星野富広さん。
  • まばたきで意志を表して詩をたくさん残した「まばたきの詩人」 水野源三さん。

みなさん重いハンディを背負いながらも、驚くべき豊かな人生を送っておられます。

あなたはどうでしょうか。あなたの今の苦難・十字架は何でしょうか。それを嘆き、否定し、恨むばかりではなくて、そこにイエス・キリストに来て頂いて、「神のわざ」を現して頂いてはいかがでしょうか。そうすれば、私達の苦しみも、希望と幸福と、喜びと感謝に満たされた、本当の命への入り口に変わるのです。

あなたに神の平安がありますように。

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